勉強するのが嫌いで、運動も苦手、それにテーブルの上のコップとかをすぐ倒したりする、いわゆる”どんくさい”子だった僕は、家族からよく「のび太に似ている」と言われた。
さらに議論が進むと、「のび太はあやとりが上手いのに、あんたはなんのとりえもない。のび太のほうがましや」という結論に落ち着く。最近ののび太は、銃の早撃ちも得意なようなので、もうちょっと遅く生まれていたら、おそらくこの点も引き合いに出されていたに違いないだろう。
のび太に似ていると言われることについては、さすがにいい気持ちはしなかったものの、それでも僕はのび太が好きだった。特にのび太の考え方や行動には、「ああ、こういうことやってみたいよなぁ」と、いちいち共感していたように思う。
そんなふうに、小学校就学前から毎回欠かさず「ドラえもん」のアニメ見ていたのに、いつからか、のび太への目線も変わってきた。かつての共感は徐々になくなり、ただ単に「毎度おバカなのび太を眺める」ようになった。いつまでたっても変化のないのび太が、ものすごくくだらない存在のように見え、ついにはアニメを見るのをやめてしまった。
のび太はアニメ(漫画)のキャラクターなのだから、いつまでたっても変化がないのは当然のことだ。でも、生身の人間である僕は違う。時間とともに成長し、思考や言動が大人のものへとなっていく。そして当然のようにアニメの視聴対象から外れた、それだけのことだと思っていた。
それだけのことだと思っていたのに、
気づいてしまった。
あのアニメを、”見なくなった”のではなくて、
”見られなくなっていた”ことに。
あのアニメを見られなくなったのは、僕が”立派な”大人に成長したからじゃなく、ただのつまんない大人になってしまっていたからだった。
歪んだこだわりや、取るに足らない知ったかぶりを盾にして、身動きできないほど自分を守って、とりつくろってみても、そこにいるのはやっぱり勉強が嫌いで、やっぱり運動が苦手で、やっぱりどんくさい自分だった。
成長なんてなかった。余計なゴミばかりを身にまとった今の自分にこそ、「のび太のほうがまし」という言葉が似合うと思った。
胸を張って、のび太と対等と思えるような、立派な大人に成長したいと思った。
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