僕の朝は、弟の歯を削ることから始まる。 いつからだろう、こんな生活が始まったのは。そう、あれは両親が失踪してしばらくした日のことだった。急に家の中でねずみを目撃することが多くなり、しだいに真っ昼間でも平気でねずみが家の中を駆けずり回るようになった。このことは近所でも有名になり、学校での僕たち兄弟のあだ名は”捨て子”から”ねずみ屋敷”になった。 そんなある日、弟はとうとう耐え切れなくなったのか、一声「チュー!!」と叫ぶと、ねずみたちとともに家の奥へと消えていってしまった。それからというもの、弟は日増しにねずみっぽくなり、遂には前歯が伸びるまでに至った。そこで僕は毎朝、走り回る弟をひっつかまえて、やすりで歯を削ってやるのだ。 こうしないと、家中が弟の歯型だらけになるからね。 さて、今僕は船の上にいる。家に置いてきた弟がいささか心配だけど、背に腹は変えられない。 弟はますますねずみ化する一方で、とうとうねずみ語しかしゃべらなくなっていた。それだけならまだしも、僕もだんだんとそのねずみ語を理解できるようになってきた。 「チュー?」 「チュチュチュー」 「チュチュー!」 これが人間の兄弟の会話だというのか。これでは僕までねずみになるのは時間の問題だ。末恐ろしくなった僕は、とうとう行動に出たというわけだ。 ある日「世界ふしぎ発見」で見たのだ。南米に世界最大のねずみと呼ばれるカピバラって動物がいるということを。こいつを見つけて家に連れて帰って、子ねずみどもを一掃する。それが僕の作戦のすべてだ。 僕は港に行き船を探した。船に乗った船頭を1人発見。 「おいおまえ、ペルーまで行けるか」 「あいよ、ペルーいっちょー!」 船頭は2つ返事でペルーまでの航行を引き受けてくれた。 どんぶらこ〜 どんぶらこ〜 ふねはゆく〜 どんぶらこ〜 どんぶらこ〜 ふねはゆく 「どんぶらこ?」 そのふぬけた擬音に、僕は冷静になってあたりを眺めた。海のど真ん中、船に乗っている僕と、オールを持った船頭。いや、船じゃなかった。今まで船だと思い込んでいたものは、どう見ても大きなたらいだった。顔面蒼白。 「おい船頭!」 「あいよ?」 「おまえ、こんなんでペルーまでどうやって行くんだ!? 行けるわけないだろ、冷静に考えろよ。冷静に!」 詰め寄る僕に、船頭は淡々と言い放った。 「いんや、オラは冷静だ。冷静にペルーに行くだ。心配すんな、絶対ペルーに連れてってやっから」 「…どっから来るんだその自信は」 「んとな、おまぁが来るちょっと前にこんなニュースを見たんだわ。ウミガメがよ、10ヶ月かけて太平洋を横断したんだとよ。それならオラだって地球の裏側にだって行けるはずだで、そう思っただよ。そしたらな、ちょーどそこにおまぁがペルーに行くゆうからよ。よっしゃ行ったるでと、思ったわけさ。年を取ってもチャレンジ精神を忘れたらダメさね」 埒が明かない。僕はこんな何もない太平洋のど真ん中で、こんな狂った船頭と死んでしまうんだ。ああぁ。急に弟とねずみ語で話していた日々がいとおしくなってきた。あんなに呪われた日々すらも。 おいおいと泣く僕に、船頭は声をかけた。 「泣いてなんかいても始まんないベ。一緒に歌うだ」 どんぶらこ〜 どんぶらこ〜 ふねはゆく〜 どんぶらこ〜 どんぶらこ〜 ふねはゆく 2人は声が枯れるまで、夕日に向かって何度も歌うのだった。 ピーカンに晴れたある日、僕は見知らぬいなか町を闊歩していた。やったのだ。ついにやったのだ。ペルーに着いたのだ。 4年3ヶ月の時が経過していた。学校に行っていたら、僕は高校1年、弟は小学5年だ。僕もずいぶん大人になっていたんだな。頭は人より悪くなったかもしれないけど、たらいで日本からペルーへやって来たという経験は誰しもができることではない。僕はこの経験を誇りに思い、この先の人生を歩んでいこうと思った。 その誇りと自信を胸に、勇気を出して道行く人に聞いてみた。 「カピバラハ ドーコニ イマスカ?」 (なぜかカタコトの)日本語とジェスチャーだけの説明で、その人はある方向を指差してくれた。勇気があれば言葉の壁なんて越えられるもんだ。「チャレンジ精神を忘れたらダメさね」…あの時の船頭の言葉が胸に響く。 指差す方向には一件のお店があった。近づいてみるとそれはチーズ屋だった。まさかカピバラもねずみなので、大好きなチーズを食べにここに来ていると言うのか。 店の扉を開ける。扉にくくられた鐘の涼しげな音が店内を優しく包み込む。 レジの奥から出てきたのは一人の女性。僕は勇気を出してこう言った。 「カピバラハ イマスカー?」 するとどうだろう。その女性はこう答えたのだ。 「ワタシガ カピバラ デース」 わたしがカピバラ? どういうことだと思い、女性の顔をまじまじと見つめる。黒く焼け、引き締まった顔。微かに笑みを浮かべたその口からは2本の前歯が「こんにちは」と、顔を覗かせていた。 僕はだんだんと気が動転していくのを感じだ。顔は真っ赤になっていたかもしれない。立っているのもおぼつかない自分自身に向かって、僕はひとこと「チャレンジ」とつぶやく。すると女性は、 「イマ ナンテ イッタノデスカー」 と、前歯もそのままに聞き返した。 高鳴る鼓動に負けないように、僕は叫んだ。 「ボクト ケッコン シテクダサーイ!」 「ハーイ」 店内のお客さんたちから溢れんばかりの拍手の祝福を受け、僕たちは結婚した。 僕が一目惚れしたチーズ屋の娘(カピコ)は、占い好きの日系人で、この日、店に日本人が訪れることも占いで知っていたという。そして、その日本人と結婚するだろうと…。すごい話だ。 思えば、弟がねずみになったのも、僕があの船頭に会ったのも、遠く離れた運命の人と出会うために神がお膳立てしてくれた奇跡のような気がする。きっとそうに違いない。 そうならば、今ごろ弟もねずみの呪いから解放され、立派な人間へと戻っているはずである。きっとそうに違いない。 僕はペルーで幸せを見つけた。もう日本へと帰ることもないけれど、弟も1人で幸せを見つけておくれ…。 そう祈ったのもつかの間、カピコは予想外の所望を口にした。ハネムーンに日本へ連れて行けと。 手には、たらいを持っていた。 今の僕にとって、日本は災いの大地でしかなかった。日本に帰ったら弟に会わなければなるまい。果たして弟はどうなっているんだろう。大海原でオールをこぎながら、弟のことを考えない時はなかった。 隣のカピコは、憂鬱そうな僕の顔を見ては、 「ダイジョウブ。ワターシノ ゼンセイハ カピバラデース。ウラナイデ デテマシタ。ネズミ、ワターシガヤッツケルカラ」 と、励ましてくれた。 「アリガトーウ」 と、僕。 2人きりのたらいの旅は、4年10ヶ月の時を要した。 日本では、予想外の光景が僕たちを待っていた。僕は9年かけて太平洋をたらいで往復した少年として、時の人となっていたのだ。たれ幕、くす玉、マスコミ、やじ馬…。岸ではあらゆるものが僕を歓迎していた。 テレビに雑誌に引っ張りだこ。そういう暮らしも悪くないじゃないか。日本に帰って来てよかった。到着目前にしてはじめてそう思えた。 しかしカピコはこう言った。 「アナタハ ネズミヲ タイジ シナイト イーケナイノ。イイ? キシニ ツイタラ、ミミニ ユビヲ ツッコミ ガサゴソサセルノ。クチデハ ズーット、アーアーッテ イウノ」 岸に着く。迫り来るリポーター。しかし僕は何にも答えず、ただただ虚ろな目で、指で耳をふさぎ、アーアー言うばかり。おのずと目の前の人だかりには一筋の道ができた。 「サア、イクノヨ」 カピコの言葉どおり、その道を歩んだ。距離を置いて取り囲む人々の目は、もはやヒーローを待ち望んでいたそれではなく、変人を見る好奇の目であった。ヒーローの道が絶たれた瞬間だった。ちょっと悲しくなった。 「ダイジョウブ。ワターシガ ツイテルワ」 そう繰り返すカピコの声が、妙に機械的に聞こえた。 ついに僕は戻ってきた。9年ぶりの我が家。そして9年ぶりの再会が待っている。もし学校に行っていたら僕は大学3年、弟は高校1年。長い時を経て。 カラカラカラ…。 見た目には何も変わっていない玄関の戸を開ける。中から漂ってくるねずみ臭を嗅ぎ、懐かしさを覚える自分にへこむ。この家は、相変わらずねずみ屋敷だった。そして相変わらずの弟がいた。 さあ、9年間たらいに乗っていた兄と、9年間ねずみだった弟の感動の対面だ。 弟は僕を見つけるなり、 「チュー!(おかえり)」 と言った。ああ、わかってしまう、ねずみ語が。再びへこみに入りかけた刹那、僕は驚くべき光景を目にすることになる。 「チュチュチュー、チュチュチューチュ!」 なんと、カピコがねずみ語を喋ったのだ。しかも日本語なんかよりずっと流暢な。その後カピコは水を得た魚のように、家中を駆けずり回り、こう宣言した。 ここを私の国にすると。そして弟と結婚すると。カピコは最初からこうする予定だったのだそだ。ねずみ王国の設立を夢見て占いを信じ、僕について来たと…。 前世がカピバラのカピコと、現世でねずみ化した弟。言われてみれば僕よりもお似合いかもしれないな。あはは…。 今僕は立派なねずみとして、人生、いや”ねずみ生”を楽しんでいる。 あの後、家来にしてもらい、ねずみの国に入れてもらった僕は、今まで見たことなかった家の裏側を走り回ったり、同じく今まで見たことなかった虫を捕食したりと、おもしろい毎日が続いている。 弟とも、人間だった時よりもうまくいっている気がするし、他のねずみたちも優しくしてくれる。カピコ女王はちょっと偉そうになっちゃったけどさ。 弟はこんな生活をもう9年も前からやってたなんて、うらやましいぞ。僕のペルーにまで足を運んだあれはなんだったんだろうと、今にして思うよ。幸せってとっても身近にあるものだったんだね。ペルーで弟を見捨てようとしたこと、懺悔するよ。あの時は正気を失ってたんだ、ごめんよ。 2001.8.16 |